タオの生き方

                      

デリック・リン

孔子と弟子たちは田舎へ出かけました。孔子は弟子のひとりが「先生、リゥ・リャンに行かれたことはありますか?」と尋ねたときに、この機会に弟子たちとタオについて議論しようと思いたちました。

孔子は言いました。「話に聞いたことはあるが、まだこの目で見たことはない。自然の美しいところだと聞いておるが。」

「そのとおりです。」と弟子は言いました。「リゥ・リャンは雄大な滝があることで有名です。ここからほんの2時間程歩いたところにあります。まだ日は高いです。先生、もしそこに行かれるおつもりでしたら、私が案内役をお引受けします。」

孔子は素敵なアイデアだと思い、一行はリゥ・リャンへ出発することにしました。歩きながら話していると、別の弟子が言いました。「私は滝の近くで育ちました。夏には、村の子どもたちと一緒に、いつも滝に泳ぎに行きました。」

最初の弟子が説明しました。「これから見に行こうとしている滝は、そのような滝ではありません。水はかなり高いところから落ちてくるため、落ちたときにはとてつもない力になっています。そこで泳ぎたい人という人は、まずいないでしょう。」

孔子は言いました。「水が強力な力を持っているとき、魚や亀も水に近寄ることはできない。これは熟考すべきことです。なぜなら、私たちは水を自然の要素として考えているからです。」

しばらくすると、滝が遠くに見えてきました。滝は遠くにありましたが、最初の弟子が説明したように、その滝は本当に雄大でした。一時間ほど歩くと、滝はもっと近くなり、彼らは滝のつくりだす深い振動音をはっきりと聞くことができました。

上り坂を越えると、滝の全様をみることができました。そして、彼ら全員が生きをのみました。なぜなら、滝の下におそろしい潮流により、あちこちへ回転しかき混ぜられながら、どう猛に逆巻く水流のなかに男がいるのを見たからです。

「早く、滝へ!」と、孔子は叫びました。「あの人は滝に落ちたに違いない。いや、自殺かもしれない。いずれにしても、彼を助けなければ。」

一行は力の限りに走りました。「先生、無駄です。」と、ひとりの弟子が言いました。「私たちが下に着くころには、私たちがどうしようもないほどの遠くへ彼は流されてしまうでしょう。」

「君の言うとおりかもしれない。」と、孔子は応えました。「それでもなお、人の命が危険にさらされているとき、私たちはできることを全てする義務があるのです。」

丘陵の斜面を降りていくと、彼らは男を見失いました。いくらも時間がたたないうちに、一行は森を抜け、滝からほんの少し下流の川にたどり着きました。彼らは川の中に男の死体がないかと探しましたが、その代わりに、その男が滝から離れたところで平気で泳いでいるのを見たのです。長い髪を広げ大声で歌いながら、どう見ても、楽しんでいるのです。一行は唖然としました。

男が川から上がったとき、孔子は男に話しかけました。「失礼ですが、私はあなたが超自然的存在なのかと思いました。けれども、近寄ってみると、あなたは普通の人のようで、私たちと何ら違いがありません。私たちは、あなたを助けようとしましたが、今となっては不要であったことがわかります。」

男は孔子に会釈をしました。「私のためにご心配をおかけしてしまったのであれば、謝ります。これは私がたまに楽しむ、ささやかなレクリエーション活動に過ぎません。」

孔子も会釈し言いました。「あなたはささやかなとおっしゃいますが、私にとっては信じられないことです。どうして滝に傷つけられないなどということができるのですか。何か特別な技能をお持ちなのですか。」

「いいえ、何の特別な技能も持ち合わせておりません。」と、男は応えました。「私は単に水の本質に従っただけです。まずそれからはじめ、それを習慣とし、そこから生涯の喜びを導き出したのです。」

「水の本質に従う。-もう少し詳しく説明していただけませんか。具体的にはどうやって水の性質に従うのですか。」

「そうですね。あまりよく考えたことはありませんが、説明するのであれば、もし強力な奔流が私をねじろうとしたら、その奔流と一緒に回るのだと言いましょう。強い流れが私を押したら、それに沿って潜ります。私がそうして川床に着くと、今度は、流れはコースを変えて強い上昇水流をつくることを心得ています。こうなったときには私はすでにそれを見越しているため、水と一緒に浮き上がってくるのです。」

「ということは、あなたは水と一緒に動いているのであって、水のなすがままにさせているわけではないのですね。」

「そのとおりです。水は大変力強いのですが、もう何年も知っている友人です。ですから、私は水がどうしたいのかを感じることができるのです。そして、水を操ろうとか私の意志を課そうとはせず、水の流れを利用するのです。」

「これがあなたの人生に同化したものとなるまで、どれくらいかかりましたか。」

「よくわかりませんね。私はこの地域に生まれたので、滝はよく見慣れたものだったのです。私はこの強力な流れとともに遊んで育ち、常にそれを心地よく感じていたのです。水に対するどんな成功も、それは単に私の生涯の習慣の自然な結果なのです。正直に言えば、どうしてこのアプローチがこんなにうまくいくのかはわからないのです。私にとっては、それが人生のあり方なのです。」

これは孔子の中心的役割を描いた荘子の多くの話のひとつです。それは孔子を知恵ある師、タオの謙虚な研究者として描写しています。荘子は孔子を冷笑し批判するためにこうした話を用いるという概念が時としてあるため、これは少々驚きであるかもしれません。荘子を学べば学ぶほど、これがタオについての多くの誤解のひとつであることがわかります。

真なる賢者は、ほとんど誰をも冷笑したり批評したりする必要はないのです。2,500年前には道教や儒教というようなラベルはなかったのです。荘子や孔子を含む全てのマスターたちがタオを学んだのです。その探求において、相互間の礼儀や尊敬を互いに学んだのです。その後の世代が抗争をはじめ、調和の教えを無視し、タオから遠く離れてしまったのです。

この話のなかで、リゥ・リャンの雄大な滝は人生を表します。この滝の恐るべき力は、人生のなかで私たちが耐えなくてはいけない極めて侮辱的な批判を表します。水は何ものであっても止めたり遅らせたりすることはできない大きな力を持っています。どうかすると、ある結果へ対してそれを避けるには全く無力であるとき、私たちはときどき事柄の進行によって自分自身が駆り立てられるように感じます。運命の純然たる力は、滝のように、どうしようもできないものでありえます。

浅いレベルでタオを学ぶ人々は、私たちすべてはタオのなかで生きタオから離れることはできず、すべてのものはそのままの状態ですでに完全なのだ、と言うことを好みます。滝の比喩的表現において、荘子はこの考え方の欠点を指摘しています。私たちは魚が水の中にいるように実際にタオのなかに存在しているのですが、水が平静である必要はありません。なぜなら、人生はダイナミックであり常に変化し、しばしば私たちを予期せぬ方向へと押すものだからです。この意味において、人生は滝の混沌とした流れに似ていると言えます。

私たちの多くは、人生の滝を限られた成功とともに切り抜けようと努力します。滝はときどき私たちを岩にたたきつけ、人形のように振り回します。水と戦おうともしますが、その努力は流出し、私たちはすぐに疲れ果てます。私たちはその不当さを激しく非難しますが、どんな怒りも何の変化をももたらさないようです。

孔子が男が怪我もなく川からあがったのを見たように、大部分の私たちとは異なるのですが、ときどき苦労なく容易く人生を乗り切っている人がいるように見えます。不思議なことに不運の強力な流れは、私たちに与えるような効果を彼らには与えません。それだけではなく、彼らは実質的には楽しんでいるのです!どうしてこんなことがあるのでしょうか。

滝のなかの男は、人生の道を究めた賢者を表しています。それは彼の技能が全く自然なものとなるまでになったという完全習得です。彼らは、自己啓発の本から学ぶことのできる「技術」や「戦略」といったものをはるかに超えています。つまり、彼らは本能と反応が完全に一体化しているのです。

賢者の精通するもののなかには、ふたつの主な要素があります。ひとつは洞察力の鋭い気づきです。滝の男が水の本質に従ったように、賢者は周りの様子に抜け目なく気づき、そこに力をあてがいます。賢者は何が起こっているのかを正確に理解するために、今現在に観察力と洞察力を傾けます。これは彼がただ単にタオイストとしての人生において「手放す」ということを意味するのではなく、-これもまた誤解であるにすぎないのですが-その代わりに、彼は周りの状況に積極的に興味を持ち、現在の出来事に好奇心を持っているのです。これが賢者の人生の本質への従い方です。

ふたつ目の要素は、前向きな関与です。賢者がひとたび人生の流れの方向と速度を理解すると、賢者はそれとともに働きます。流れによって自分自身を振り回させるのではなく、彼は流れに乗るのです。滝の男が水を友と見なし、水がどこに行きたいのかを知っていたように、賢者は人生を受け入れ、直感的にその傾向や好みを感じるのです。よって、水の巨大なる力と戦うよりも、賢者はその力を有利になるように活用するのです。

流れのいくつかは、私たちを下の方へと運びます。そのような流れは、人生における挫折を表します。私たちすべてが、時折そうした逆境に出会います。賢者のタオの理解は、彼にどんな流れも永遠に下に押し続けられないということを示唆します。早かれ遅かれ、それは極限まで行き、そして反転するのです。このことを賢者のように予期できるものは、上昇の動きをうまく活用することができます。そうできない人は、機会を見逃してしまうかもしれません。

どうしたら私たちは滝のマスター、又は人生の波に乗るサーファーになることを学べるのでしょうか。荘子は、まず人生をよく知り、多くの流れに精通することだと言います。私たちが次第に心地よくなったときに、観察し続け、状況の変化に気を配りつつも、それを実践しはじめるべきなのです。流れが方向やスピードを変えたとき、それに自分自身を合わせなくてはいけません。

荘子からの最も重要な教えは、この訓練を生涯変わらぬ習慣としていく必要があるということです。なぜならタオは受身の、もしくは不活性の探求ではないからです。そうではなく、タオは活力とダイナミズムに満ち、行動の方向性を具現化するものだからです。したがって、私たちの積極的な関与なくして人生の熟達が自然に起こることはないのです。

この熟達はどれくらいかかるものでしょうか。荘子が私たちに答えることはできません。なぜなら、それは個々の進歩によるものだからです。人生をマスターするために一生を費やす人もいるでしょう。

私たちにはっきりとわかることは、私たちが荘子の提案したようにその習慣を熟成させるための積極的なステップをとれば、-言い換えると、一貫した日々の実践のなかでタオを修道するのであれば-私たちは滝の男のように、人生のすべての瞬間を楽しむことができるということです!