タオの生き方

        トゥルー・セルフ          

 

デリック・リン

 

「先生。」弟子が尋ねました。「トゥルー・セルフとは一体何ですか?」

賢者は答えました。「究極的には、あなたのトゥルー・セルフはタオで、タオはあなたです。」

「先生、それを信じるのは難しいのですが・・・。タオは偉大です。私は取るに足らないものです。タオはパワフルです。けれども、私は少しの強さしか持っていません。タオは無限です。私はさまざまな制限のもとで苦労しています。タオはどこにでもあります。私は一時にひとつの場所にいることができるだけです。私が言えるのは、タオと私は全く違うということです。どうして私は究極的にはタオで、タオは私であると言えるのですか?」

賢者はその質問に直接答えずに、弟子にボールを手渡しました。「これを持って近くの川へ行きなさい。そして、水を入れて戻ってきなさい。それから、話をつづけることにしましょう。」

弟子は言われたとおりにしました。けれども、弟子が帰ってくると、賢者はボールをみて、眉をひそめました。「川まで行って水を汲んできなさいと言いませんでしたか?これではありません。」

「先生、でもこれがそうです。」弟子はその非難に混乱しました。「私はボールを川の中に入れて水を汲んできました。この水が川の水であることは確かです。」

「川のことはよくわかっています。」と賢者は言いました。「川にはさまざまな魚が泳いでいます。でも、この水には魚はいません。多くの動物が川に水を飲みにきます。でも、このボールのなかには動物はいません。たくさんの子どもたちが川の浅瀬ではしゃぎます。ほら、ここには子どももいませんね。だから、この水は川の水ではありません。」

「先生、これはほんの少しの水です。ですから、当然先生のおっしゃるようなすべてのものを入れることはできません!」

「おお、そうか。」と賢者は言いました。「では、川へ行って水を戻してきてください。」

弟子は当惑の面持ちで言われたとおりにしました。彼はいったい何が賢者をあんなに変にしてしまったのだろうと考えずにはいられませんでした。彼は水を川に戻し、帰ってきました。

「水は川に戻しましたか?」賢者は尋ねました。弟子はうなずきました。

「よろしい。」と賢者は言いました。「あなたが汲んできた少量の水は、今は魚や動物、そして子どもたちが触れる水と同じです。実際には、今の川の水は、しばらく前に私たちが見ていた水と同じです。」

「川をタオ、ボールに入った水をあなたのトゥルー・セルフとして考えてみなさい。ある制限された観点からは、水は川とはかなり違います。両者が別物であり、同じではないと信じてしまうことも理解できます。川はボールの水よりもはるかに偉大です。それは、タオがひとりの人間よりもはるかに偉大であるということと同じです。」

「川から水を運んだことで、あなたは前よりも広い視野でそれを見ることができるはずです。川は水の源です。それはタオが私たちの真なる内面の自己の源であることと同じです。あなたは自分で川から水をボールで汲んだので、自分の目でそれを見ました。ですから、あなたは、私が違うと説得しようとしても、あの水は川の水だと言い張ったのです。」

「あなたが水を戻したとき、水が川から離れたのは一時的でしかなかったのを見ました。それは、ちょうどトゥルー・セルフがそうであるのと同じです。私たちの肉体は、一時的な状況でしかないのです。永遠なる真実とは、私たちの内的本質がタオから来て、最後にはタオに戻るということです。最終的には、私たちとタオはひとつになります。」

この物語で水がボールに入っているのと同様に、私たちはトゥルー・セルフ(本当の自分、本性、真我)の入った肉体を持っています。ボールがあると、水をある場所から別の場所に運ぶことができます。同様に、肉体を持つと、肉体の世界をその一部として経験することができます。

ときどき私たちは肉体に気を取られるあまり、肉体に執着してしまい、肉体を自分自身だと思ってしまいます。それはボールを水と間違えてしまうことと同じです。どんなボールに入っても、水は水のままです。同様に、あなたのトゥルー・セルフは、あなたの肉体がどんなに変わろうとも、あなたの本質のままです。

弟子が水を川から汲んで川に再び戻したことで、多くのレッスンを学んだように、私たちも物質社会における経験やさまざまな旅を通して学ぶことができます。水のボールが、運ぶときには、ひとつであり、すべてであるように、私たちも人生において、個々のレッスンプランをこなしているとき、ひとりであったり孤独であったり感じることがあります。肉体の知覚によって強化されるこの感情は、私たちすべてが偉大なる自己の一部であることを忘れさせることができます。

ボールは水を永遠に入れておくことはできません。ある日、うっかり落として粉々になってしまうかもしれません。何年も使うと、ひびが入って割れてしまうかもしれません。同様に、肉体も明らかに永遠のものではありません。事故、怪我、病気、年齢が肉体を使いものにならなくしていきます。

水は川に帰らなくてはいけません。たとえ水が川に戻されなくても、どこかでこぼれ、川へと流れるか浸透することでしょう。同様に、肉体が適切な器でなくなったとき、トゥルー・セルフは根源へと帰らなくてはいけません。宗教的な人々はこれを神と呼ぶかもしれません。無神論者はそれを自然の法則と呼ぶかもしれません。私たちはそれをタオと呼びます。どんな呼び名であっても、それは私たちの最終的な方向であり、私たちの根源なのです。

水が川とひとつになったように、トゥルー・セルフはタオとひとつになります。それは、私たちが孤独と別離が幻想であるということに気付いたときに起こります。あなた方と私は、決して聖なる宇宙創造の源から孤立したり分離したりすることはありません。私たちは決して真に孤独であることはないのです。ワンネス、タオはすべてを統合するということは、トゥルー・セルフの究極の現実(リアリティ)なのです。