タオの生き方

  
            祈り  
 

デリック・リン

 

古代中国で、皇帝が大臣に仏に祈るためにお寺に行きたいと言いました。

お世辞の得意な大臣が「陛下はお寺などを訪れる必要はございません。」と言いました。

「何だと?」皇帝は反対されて驚きました。「何故だ?」

大臣は深くお辞儀をして言いました。「仏の本性は慈愛の心です。陛下は純粋な慈愛のお気持ちから、民のことをいつも心配しておられます。ですから、陛下はすでに生きた仏であり、お寺に行く必要などないのです。」

「おもしろい。」と皇帝は言いました。「それを聞いて、ある話を思いだしたぞ。聞いてくれ、こんな話だ。」

観音菩薩を見たいという人生でひとつだけの願いを持った熱心な仏教徒がいました。彼は観音を探しながら、多くの場所を旅し、多くの経典を学びました。

何年かの努力の後、彼はついに成功を収めました。家から遠く離れた聖地で、菩薩は燦然たる栄光の輝きのなか、彼の前に現れました。彼は畏敬の念でひざまずきました。

観音は彼に尋ねました。「なぜ私を探すためにそんなに遠くから来たのですか。」

男は言いました。「観音様、私はひとつだけどうしてもお尋ねしたいことがあったのです。」

「よろしい。どうぞお聞きなさい。」と観音は言いました。

「困ったことがあると、私は観音様に助けを求めて祈ります。観音様が困られたときには、祈られるのですか。」

「はい。」観音は答えました。

「誰に祈られるのですか。」

「観音菩薩に祈ります。」

「でも、あなたが観音菩薩です!どうしてご自身に祈られるのですか。」

「助けが必要なときには、誰か他の人に聞くよりも自分自身に聞いた方がいいからです。」と言って観音は微笑んで言いました。そして彼女は燦然たる栄光の輝きのなかに消えました。

「私がこの物語から学んだことは、仏は心の中にいるということだ。」と皇帝は大臣に言いました。「私たちが寺院に行って祈るとき、実際は自分自身に祈り自分自身に助けを求めているのだ。それが今日、私が大臣の反対を押し切って寺院に行く理由だ。」

この皇帝は、大臣のゴマすりを受け入れなかったことから、とても知恵があったと言えます。なぜなら、古代皇帝は絶対的権力を持っていたからです。彼らはおべっか使いに取り巻かれる傾向にありました。多くの皇帝は、巧みな必要以上の賛美に踊らされていましたが、この皇帝はそれから身を守る意識、つまり、しっかりした自己を持っていました。彼はエゴに支配されませんでした。そのような皇帝は極まれにしかいません 

皇帝は宇宙の真実に触れました。つまり、仏とは悟りを得た人間であるということです。仏性の可能性は、すべての人々の心のなかに存在するのです。もし大臣が言ったように仏は皇帝のなかにいるというのなら、同様に大臣やその他の人々のなかにもいることになります。私たちはすべて将来仏になるのであり、それは「もしかしたら」という問題ではなく、「いつに」という問題なのです。

これは全生物は基本的に等しいということを穏やかに強調する皇帝のやり方でもあります。生活がどんな状態にあろうと、身分が高かろうが低かろうが、私たちの仏性には何の違いもないのです。外観と物質的財産は人によって異なりますが、仏性の最も内的な本質は同じなのです。

けれども「仏性」はこの本質を描写する多くの言葉のひとつに過ぎません。私たちはそれを「タオ」「神の国」「神性のひらめき」又はその他のさまざまな名前で呼ぶことができます。どんな名前を使おうとも、私たちの内にあるその存在により、私たち誰もが深い慈愛と驚くべき能力を持つことができるのです。私たちがこの本質とつながると、私たちは最も高いレベルで機能するようになり、又、今まで想像した以上にもっとパワフルで臨機応変になります。

祈ることは、仏性とつながる最も一般的な方法です。けれども、しばしば私たちは祈りを外への、つまり、私たちの外部にある神性に対しての対話であると思っています。皇帝も観音もともに、それは逆であり、その対話は内に向かうべきものであると指摘しています。ですから、それは私たちの最も深い核心によって聞くことができるのです。

どうして内に向かった方がよいのかを理解するためには、どんな宗教のどんな神であれ、神々に祈るときに何が起こるのかを考えることが重要です。意識的には気付いていないかもしれませんが、神に祈るとき、言葉にしない多くの思いによって動いているのです。

1)神は存在すると仮定します。もし神が存在しないのなら、人は誰に対しても祈りに行きません。そして祈りは無意味なものとなります。

2)神は私たちの祈りを聞くことができると仮定します。もし神が存在しても私たちの祈りが聞こえないのならば、祈りは私たちに何ももたらしません。

3)神は実際に聞いていると仮定します。たとえもし神が存在して祈りを聞くことができても、神が聞いていないことが考えられます。

4)神は私たちの問題を気にかけてくれると仮定します。もし神が存在し、聞くことができ、聞いているとしても、もし気にかけていなかったとしたら?思いやりのある神に祈っていると思っているけれど、もし本当にそうではなかったら?

5)神は助けてくれると仮定します。神がもし深い思いやりを持っていたとしても、何もしてくれなかったら?

6)神の助けはタイムリーだと仮定します。もし神の助けが遅れて、問題は起こってしまいその悪影響がでてしまったら?もしそうであれば、上記のすべてが満たされたとしても祈りは無意味になってしまいます。

祈りが意味あるものにするためには、上記の要件がすべて満たされなくてはいけません。上記のうちのたったひとつでも欠けると、すべては無意味なものとなります。すべてのつながりが確実なものでなくてはならない鎖のようであることは容易に理解できます。もしひとつでもつながりが切れると、鎖すべてがダメになってしまうのです。

では、どうしたらそのつながりが確実なものであることがわかるのでしょうか?まず無理です。もちろん、従来のアプローチは信仰心を持つことです。けれども、これは単なる信仰でも信仰心への傾倒でもないことに注意してください。鎖ひとつひとつのつながりはそれぞれが未知であり、信仰に基づく賭けを必要とすることが、私たちの分析で明らかになっています。

よって、神に祈るとき、あなたは神が存在すると仮定しているだけでなく、実際には複数の疑う余地のない盲信をしているのです。このことについては通常うまく取り繕われ、宗教的慣行においては明確に説明されません。

では、私たちの祈りが内面に向かい仏性とつながったときに、何が起こるのかを見てみましょう。

1)私たちは存在しますか? はい、自分が存在することを知っています。

2)自分自身を聞くことはできますか? はい、聞けます。

3)自分自身の声を聞いていますか? はい、聞いています。

4)自分の問題を気にかけていますか? はい、とても気になっています。

5)自分自身を助ける何かをしますか? すべて私たち自身にかかっています。

6)時機を逸せずに自分自身を助けますか? これも、すべて私たち自身にかかっています。

突如として物事が劇的に変化をしたように見えます。この特別な鎖は弱みなどありません。私たちがそうあってほしいと思う分だけ強くなることができます。そのつながりに翻弄されることもありません。なぜなら、私たちが自己破壊をしない限りそのつながりは壊れることはないからです。6つの大いなる未知が、6つの大いなる確信へと変化したのです。よって、私たちは盲信をする必要は全くありません。

この鎖の最後のふたつのつながりは、あなた自身のみができる選択です。ちょうど中国の皇帝が臣下に対して絶対的権力を持つように、あなたは自分自身の決断に完全なる権威を振りかざすのです。あなたは困難にあるとき、あなた自身を支援する命令を出すために、この権威を利用することができますか?それとも期待に応えてくれるかどうかわからない未知のものに頼るために、この権威を放棄しますか?

皇帝がおべっか使いに囲まれていたように、私たちも心のなかに不誠実な大臣たちがいます。それはエゴを満たすための美辞麗句を囁く声です。彼らは私たちにどこに行く必要もない、何をする必要もないと囁きかけます。あなたはその虚偽のアドバイスに安心し無抵抗で従いますか?それとも知恵を働かせて、彼らの心地よい言葉から自分自身を守り、前向きな行動をとりますか?

ちょうど皇帝がそうであったように、この前向きな行動はお寺を訪れるのに大変役立ちます。あなたにとっての正しいお寺には、あなたが修道するために必要とする手助けをする肯定的なエネルギーがあります。もし近くにお寺がないのであれば、あなたの心のなかにあるお寺を訪れればよいのです。この内面のお寺には、美しい仏陀の像があります。それはあなたの仏性です。

あなたは、あなたの人生に対しての完全なる権威者です。あなたは皇帝のように知恵ある統治者になることができますか?そうであるならば、外部の神からの答えを待つのを止めましょう。偽りの申し立てを乗り越え、お寺へと進むときなのです!