タオの生き方

 
        服に食事

デリック・リン
 

 

ある日、賢者は友人から招待状を受け取りました。彼らは長い間会っていなかったので、その友人は賢者を夕食に招きたかったのです。

賢者が指示された住所に行くと、そこには大邸宅がありました。賢者の友人が最近かなりうまくやっていることは一目瞭然です。

入り口でドアマンが賢者を止めました。賢者が質素な服を着ていたので、ドアマンは勧誘員だと思って賢者を追い払いました。

これを面白がって、賢者は儀式用のローブに着替え、大邸宅に再び行きました。ドアマンは彼が誰かは知りませんでしたが、重要人物だと思いました。賢者は友人の大邸宅の中に通されました。

夕食がはじまると、賢者は何も口にせず前菜や餃子をポケットのなかに入れ続けました。彼のホストがこれを一番驚き言いました。「先生、そんなことをなさる必要はありません。お持ち帰りできるよう後で入れ物に入れますから。どうぞゆっくりくつろいで食事を楽しんでください。」

賢者は言いました。「最初質素な服を着てここに来たところ、玄関で止められました。このローブに着替えると、私は歓迎されました。どう考えてもあなたは私ではなく私のローブを招待したのですから、ローブが食事を楽しむことが道理にかなっているのです!」

タオの学びにおいて、もっとも興味をひかれることは、そこに浸透しているユーモアのセンスです。決して軽薄ではないのですが、賢者は自分自身を真面目に捉えすぎることはありません。ですから、他の人がひどく侮辱されたと解釈することでも(入り口で拒絶されるような)、賢者にとっては単に生きた人間の本性を観察する興味深い機会になるのです。

賢者は意図する核心を伝えるためにもユーモアを使うことがあります。彼らはこの方法がより効果的で、厳格な講義よりも容易に受け入れられることを知っています。荘子が多くの話で明示したように、心を照らし一日を明るくする笑いは修道の道をより深めます。

この物語のなかで賢者が観察した人間性は皮相です。私たちは外観で人を判断する傾向があります。ドアマンが賢者を識別できなかったように、私たちはしばしば日常生活においてまわりの人々の本質を見落とします。

賢者は抗議もせず又不平も言いませんでした。彼はこれがほとんどの人がなすことだとわかっているからです。もし彼が人間の本性と奮闘し他者を変えようとするならば、それは単に無駄な行動となるでしょう。

賢者は与えられた設定に合う服装をするのにかなり積極的でした。一般的ルールでは、タオ修道者は生活するうえにおいて慣例に従わない態度を誇示することはありません。したがって驚かせ、目立ち、注意を引くようなものを身にまとうことはありません。彼らは慣例に反旗を翻すことによって自分のすばらしさを証明する必要がないのです。

タオの修道者はだらしがない格好をして、それを内的本質に従うためだと言って正当化することはありません。真なる修道者は、これを行動のいたらなさを隠すための知的詭弁と認識します。身なりを整えることは、私たちの接触する人々に対する敬意を示します。それは相手に対する礼儀です。

物語のなかで、賢者は本をそのブックカバーで判断することがいかにばかげているかをユニークな方法で指摘しています。誰もが内的本質は不変であるものの外観ははかないものであることを知っています。けれども、私たちは外面に注意を向け過ぎ、そのはかないものをまるで本物であるかのように扱い始めました。本をブックカバーで判断するのみではなく、本の中のすべてのページを無視し、そのカバーを本と思っているのです。

近代の名声文化を考えてみてください。外観を基盤とする俳優やモデルに私たちがどのように心酔するかを考えてください。私たちはまず彼らの肉体的美しさに好感を抱きます。これはドアマンが儀式用ローブを着て現れたときに賢者に従ったことと差がありません。

歴史上これほど外観が重視されたことはありませんでした。古代中国では、先生と学者は役者よりももっと高く評価されていました。今日では全く逆になっています。社会全体として、名声に賞賛と経済的報酬を浴びせます。これは賢者がローブのポケットに食べ物を入れていたのと同じです。

名声と肉体美だけではありません。人々の相互判断のあらゆる方法を考えてみてください。私たちはトゥルー・セルフとほとんど関係のない肩書き、階級、所有、富、社会的地位等のあらゆる外的属性に注目します。

衣服を外的属性と考えると、何を「着ているか」を基準にして人と接するドアマンと私たちは全く同じであることがはっきりします。ポンコツ車に乗っている人は数段低くみなし、上級学位を持っていれば見積もりレベルを上げます。

問題は、衣服と個人的に身につけていることはまったく別物であるということです。例えば、私たちは物質的なものはあまり持っていないものの、心に無形の財産として富を携えている平和部隊の志願者に出会うかもしれません。又は、素晴らしい肩書きと学術的栄誉を持つものの、ひとかけらの常識も持たない科学者に出会うかもしれません。

表面を越えてものを見、本質に注視すると、私たちは霊性を見るようになります。この内的領域においては、私たちが差別していた外的属性は何の意味も持たなくなります。これはマザー・テレサがどうやって長年ハンセン病患者の世話を続けられたかを質問されたときに答えたことです。彼女は、変装した彼らのなかに神を見たと言ったのです。 

もし私たちが賢者やマザー・テレサの目を通してものを見るのならば、私たちも私たちはひとつであるという真実を見ることができるでしょう。霊的生物として、私たちすべてが神性なる本質であり、誰かが高級であり誰かが低級であるということはありません。この永遠なる自己が私たちの本当の姿です。そしてどんなに服を着替えても変わることはありません。これが決して変わることのない私たちの一部なのです。