タオの生き方

 
       涙のプリンセス  

デリック・リン
 

 

春はプリンセス・リーの大好きな季節でした。彼女は庭の花々を愛し、さまざまな色や香りを楽しみながら庭で長い時間を過ごすのでした。

今日はいつもと何かが違いました。彼女は楽しむ代わりに、悲しげにひとりで座っています。子どもの頃からの侍女で話し相手のメイが心配して彼女に近づきました。「姫様、お邪魔して申し訳ありません。どうなさったのですか。」

「あぁ、メイ。大丈夫よ。私の婚約のことを考えていただけですから。」彼女の父である公爵は、今朝プリンセス・リーは2,3ヶ月中にジンの国王と結婚すると発表したのです。

「私もあの発表を聞きました。公爵は大変吉兆で祝賀の大義であるとおっしゃいました。」

「他の人達にとっては多分そうでしょう。でも私はそうではないのです。ジン国王にはお目にかかったこともありませんし、彼が何をお好みなのかも知らないのです。私はここで花と暮らす方がよいのです。ここを離れたくないのです。あぁ、どんなにその結婚が不安なことでしょう!」

プリンセス・リーの感情の唐突な激しさにメイは驚きました。「お父上に結婚したくないとお話になりましたか。」

「いいえ。ジンは強力な王国です。結婚により固められた彼らとの同盟関係は、私たちをより強く安全にするでしょう。これは私の義務なのです。避けることはできません。」

「では、どうなさるのですか。姫様。」

「私にできることは、それをできる限り忘れることだけです。」

時が経ち、結婚式が近づくにつれ、プリンセス・リーはますます不安になりました。その日がついにやってきたとき、彼女は部屋からでることを拒みました。これはかなりの混乱をもたらしました。「許せん!」と公爵は不快をあらわにしました。「メイ、彼女が耳を傾けるのはお前だけだ。分別ある行動を取るよう話してきてくれ。今すぐにだ!」

メイは奥の部屋へ入ると、プリンセスが激しく泣いていました。「姫様、何をなさっているのですか。みなさまお待ちですよ。」

「放っておいて!私は彼とは結婚したくないの!」

メイはプリンセスの服が涙でびしょ濡れになっているのに気づきました。プリンセスがかなり長い間泣き続けていたのは明らかです。「姫様、姫様は私にこれは避けられないことだとお話になりませんでしたか。」

「あなたにはわからないことだわ!本当に本当に本当にジンの宮殿には行きたくないの!私はここにいたいのよ!」

メイはため息をつきました。メイはプリンセスをどう納得させるかをわかっていましたが、今回は彼女の能力と忍耐力でさえも限界かもしれません。「姫様、ご存知のようにすべてがすでに始まっています。海の波を押し返すことができないように、これ以上延期することはできないのですよ。」

プリンセスは振り返り、メイはなだめるような声で応えました。何時間かの後、プリンセスはこの状態を続けることに疲れてきました。彼女は王室の馬車に乗ることに同意し、ついに結婚パーティーの開催が可能になりました。プリンセスにとっては、結婚式はかすみのように過ぎていきました。

時が経つにつれて、プリンセス・リーはジン宮殿に慣れてきました。王は彼女を大事にし、彼女が今まで経験したことのないような贅沢をさせました。特に国王のベッドは素晴らしいものでした。彼女はそこで眠ると、まるで空中を浮いているかのように感じました。更に、ジン宮殿のすべての食事は目を見張るようなものでした。プリンセスは今まで、さまざまな方法で料理された、そんなに多くのごちそうを食べたことはありませんでした。

再び春が訪れました。プリンセス・リーはジン宮殿の王の庭に美しい花々が咲いているのを見つけて喜びました。彼女はメイを呼び寄せ時間を無駄にすることはありませんでした。彼らは一緒に探索することができたのです。

「姫様、元気いっぱいでいらっしゃいますね。」

「ええ、そうよ。花のなかを歩くのが待ちきれないわ。」

「なんて不思議なんでしょう!これが本当に、本当に、本当にここには来たくなかった人と同じだなんて、ありえるのでしょうか。」

「思い出させないでちょうだい。」プリンセス・リーは赤くなりました。「私は今でも自分がなんて愚かだったのだろうと思うのですよ。ここは本当に素晴らしいわ。どうしてあんなに心配だったのか理解できないわ。」

この物語は表面上だけのものではありません。荘子のほかの物語と同じく、より深い何かを指摘するために隠喩が使われています。気乗りしない王の新婦についてだけではありません。これは私たちすべてに対しての話であり、私たちが生と死にどう取り組むかについてです。

プリンセスの結婚前の暮らしは、この世の生活を示しています。彼女が春と咲き乱れる花を楽しむように、私たちも肉体世界の感覚的喜びを楽しみます。私たちは人生を楽しみます。私たちはそれに慣れ執着しています。

結婚式は死を示します。プリンセスにとっては、結婚式は独身生活の気ままな暮らしの終わりを意味していました。私たちにとっては、死もまた最終地点のようであります。この私たちの楽しんでいる肉体の存在は永遠ではありません。遅かれ早かれ、私たちは死にます。

これを直視するのは心地よいものではありません。プリンセスが近づいてくる結婚式について考えて憂鬱になったように、私たちも死すべき運命に気づくとき、一連の否定的感情を感じます。この否定的な力は、人生に対する執着の程度に相応しています。

私たちの多くにとって、死は不愉快だけではありません。まったく恐ろしいものでもあります。考えてみてください。死ぬものであることを知るという気づき。世界を感じ、知り、経験する「私」がなくなるのです。「私」が存在しなくなる。これは私たちに寒気を感じさせます。

これは知らないという恐れによるものです。結婚前にプリンセスは国王に会ったことがなく、うわさ以外何も知らなかったのです。これが彼女を恐怖に落としいれました。同様に、私たちは死後の世界についての正確な知識を持っていません。死は偉大なる無名のものなのです。死んだ後はどのようなものでしょう。天国と地獄でしょうか。辺獄?無意識状態?組織化された宗教には答えがあるようですが、すべては信仰心次第です。確かな物理的証拠はありません。

ひとつ確信をもって言えることは、死を避けることはできないということです。プリンセスは結婚を避けることはできないことがわかっていました。何があろうとも彼女は結婚しなくてはいけなかったのです。同様に、理性は死が当然のものであると教えてくれます。すべての生物は死に、私たちもその例外ではありません。

私たちは死について考えないことによって、この避けられないものと向き合うことを選ぶかもしれません。プリンセスが結婚についてできる限り考えないようにしたのと同様に、私たちのほとんどがその問題を考えたり議論したりすることを避けます。回避は問題を解決しませんが、それが私たちのできるたったひとつのことのようです。

結婚式の準備はプリンセスの意志とは関係なく進められました。同様に、死は私たちがなにをしていようと一日一日と近づいてくるのです。年をとればとるほど、私たちはより頻繁に死の冷たい風を感じるようになります。友人達や愛する人達が亡くなるにつれ、私たちはある程度そう遠くない将来に自分の番がくることに気づきます。

差し迫った結婚にプリンセスは十分気づいていたにもかかわらず、ついに当日になったとき、その気づきが彼女の混乱を減少させることはありませんでした。彼女は泣き、無理に抵抗しました。同様にして、私たちの死に対する知的理解も、私たちの生きたいというどうしようもない気持ちを軽減することはありません。平和と静けさの道をつくるものはほとんどいません。私たちの多くにとって、死に対する嫌悪の強烈な感覚は、極度の拒絶と怒りを導きます。私たちはパニックに陥り、非難し、嘆願し、当り散らします。私たちは死なせないために何でもするでしょう!

最後にはプリンセスの涙と奮闘は無駄に終わります。結婚式は予定通り行われます。ここでのメッセージは明らかです。私たちがどんなに強く死を拒否し拒絶しても関係ないのです。ゆくゆく私たちは降参し、死の現実を受け入れるのです。潔く受け入れれば、そうとも限りませんが、選択の余地はありません。

物語はここで終わりません。その後、プリンセスは新しい生活に慣れます。これは死が終わりを意味しないという荘子の親切な示唆です。まだ続くのです。肉体が機能を停止すると、霊的な自身は純粋な意識の領域へと移ります。これが贅沢な宮殿であり私たちの新しい家なのです。

プリンセスが宮殿で楽しんだご馳走は、死後の世界での私たちの報酬を示します。私たちのつくったカルマは、よかろうと悪かろうと、私たちが地上次元から移り変わるとき私たちと一緒に持ち越されます。もし私たちが否定的なものを蓄積していた場合、そのために導かれた結果と取り組み、品行を改める必要があるでしょう。もし私たちが肯定的で意味ある人生を送った場合は、私たちは私たちの取得した報酬を楽しむことができるでしょう。あなたの働きによって得られた果実を味わうことの満足感は例えるものがありません。

王のベッドは、肉体的限界による重荷のなくなった無形存在の状態を示します。プリンセスがベッドで眠ると空中で浮いているかのように感じたのと同様に、霊的領域の魂は存在の至上の軽さを楽しみます。魂は年をとり、弱り、病気になる肉体の妨害に耐える必要はありません。

プリンセスは結婚を拒絶し泣いて混乱したことを決まり悪さとともに思い出しました。同様に、もし私たちが霊的領域の観点から死に対する激しい闘争を振り返ると、私たちの愚かさを見ることができるでしょう。

この物語を通して、荘子は生と死に関する正しい知識をもった観点を獲得するために、死ぬまで待つ必要はないということを教えています。その知恵は今すぐに私たちも使用できます。物語は死に立ち向かうことは、不必要であり無駄なことであると教えています。死を自然な成り行きに任せましょう。タオの修道者は何としても死を追い払うために、死と戦ったり死から逃げたりする必要はないと感じます。

同時に、タオの修道者は死に急ぐこともありません。素晴らしい働きやすい環境において肉体を維持するためにタオの健康に従います。よって、彼らは人生において彼らの聖なる仕事の最善を実行することができます。彼らは健康な体と生活習慣は人々が注目する長寿と考えるものを導き出すことを知っています。けれども、それは彼らにとっては、急ぐこともなく、抵抗することもなく、争うこともなく、ただ単に体にその自然な寿命を生き延びさせるだけなのです。

この物語の最も深いレベルにおいては、死への恐れに対する荘子の姿勢を見ることができます。死後の世界は未だ未解明です。私たちはこれ以上の証拠も確信もありません。なぜなら荘子はこのなぞを解くためにここにはいないからです。荘子は死に対して光を発することはありませんでしたし、未知を既知にしたわけでもありません。それよりも、彼は知らないということと恐れを自動的に結び付けるべきではないということを示してくれました。未知ということは、それ自身で否定的なものであるということではないのです。未知なしで、新しい発見も冒険もありえないのですから。私たちの誤解と無実無根の仮定によってのみ問題が生じるのです。

これはタオの修道者がどうやって怖れを克服するかを明らかにしています。私たちは怖れを否定する必要も抑制する必要もありません。なぜなら、否定や抑制は単に効果がないからです。代わりに、それを認識し、受け止め、完全に理解します。この理解の明確にすることによって、怖れは自然に消滅します。これがタオを歩くということの意味です。人生の庭を歩き、知恵の花をつみ、自由の香りを楽しむのです。怖れからの自由です。