タオの生き方

 
     自由になって          
 

デリック・リン
 

 

昔、盗みの道を極めた泥棒がいました。彼の功績は伝説となっていました。彼の息子は父親を尊敬し、父親と同じ道を進みたいと思っていました。

息子は泥棒の手口の練習を一生懸命にしましたが、彼は練習が現実のものとは比べものにならないことを知っていました。若さゆえの辛抱のなさから、彼はたびたび父親に押し込みに連れて行って欲しいと頼みましたが、父親はいつもまだ準備ができていないと答えました。

「お父さん、いつになったら準備ができるの?」彼は尋ねました。

「いずれわかる。」

ある日、泥棒は息子についてくるように言いました。息子は実際に自分でできるチャンスだ!と思いました。

彼らは人目を盗んで大きな屋敷に入りました。中に入ると、泥棒はドアを指差し息子に中に入るよう合図しました。息子がそこに行くと、それはただのクローゼットでした。息子が振り返ると、父親はドアを閉め鍵をかけました。

彼は驚いてささやきました。「お父さん、何をしているの。出して!」 

ドアの鍵をあける代わりに、泥棒は「泥棒だ!泥棒だ!」と叫びながら廊下を駆け戻って行きました。そして、彼は外へ逃げ闇のなかへと消えていきました。

息子は抜き差しならない状態に追い込まれました。騒ぎに気付き、屋敷の住人が様子を見に来ました。召使い達が連なって一部屋一部屋を調べ始めました。

息子は逃げなくてはいけません、でもどうしたらいいのでしょう?いいアイデアが浮かびました。召使い達がクローゼットに近づいてきたときに、彼はねずみの鳴き声を真似しました。

それを聞いて、召使い達は中を見るためにクローゼットの鍵を開けました。息子は反射的に行動を起こし、ドアを蹴り開け召使い達をわきかけて一目散に走りました。

屋敷からでると、息子はなんとかして逃げ出すことができました。そして父親の待つ家へ帰りました。「おかえり。」と父親は言いました。「どうやって逃げ出したのか聞かせてくれるかい?」

息子は詳しく説明しました。息子が話し終わると、父親はうなずいていました。「これで泥棒になる準備ができたな。」と父親は微笑みながら言いました。

この話は、タオの修道においての重要な変遷についてです。つまり、タオを学問的科目として勉強することから、人生の道としてその教えを生きるということへの変遷についてです。

泥棒の道は、精神的探求を象徴しています。泥棒になるという息子のゴールは悟りへと向かう私たちの旅のようです。この旅は相当な時間を要するため、私たちはときどきこの話の息子のように忍耐強くなくなります。私たちは行き詰ったように感じ、何故無知から熟達へと早く進歩することができないのかと感じるかもしれません。

息子が経験した練習は、私たちがタオについての本を読むのとよく似ています。息子が練習は実際のものとは違うことに気付いたのと同様に、私たちは早かれ遅かれ本を読むことは実際の修道とは比べものにならないことに気付きます。

確かに私たちは読書によって学ぶことができますが、学問的知識とタオの知恵を息づく人生にはギャップがあります。多くの本を制覇したものの、人生において重要な変化の経験をしたことがない人々がいます。しばしばこれは彼らが言葉にとらわれてしまっているためであることがあります。

例えば、彼らは自然(ジラン)の教え(ジラン:自然であるようにとする概念)に出会うかもしれません。タオは自然の法則に従っています。ですから、私たちは自然な、自分自身から生じる行動にも従うべきです。これは偉大なる概念であり、彼らは賢者のように自然に従って生きることを決断します。

けれども、何かがずれているのです。彼らは会議や予約に遅れてやって来て、友人が何かあったのかと尋ねると、遅刻はただ単に自然に生じるがまま努力を要しないようにするためであると説明します。彼らは寝坊をしたのですが、彼らは自然に従っているので、それはそれでよいと言うのです。

これを聞くと、賢者はこう言うでしょう。「どちらの自然の概念ですか?」

この質問はシンプルなようで、そうではありません。大いなるタオのように、自然はすべてを網羅しています。プロセスに関しては、自然が進歩、停滞、退行を促します。それらはすべて自然の一部です。確かに私たちは自然に従うべきです。けれども、実際どの観点に従うべきなのでしょうか。

進化の観点においては、私たちは自然のなかに死滅と同様に発展を見出します。ともに自然であるため、霊性においてはどちらの道を選ぶべきでしょうか。私たちは自然に進化するのでしょうか。それとも、自然に余計なものは取り除かれていくのでしょうか。

この洞察を的確にすることなく自然を見習うと、私たちは物ぐさと気紛れの怠惰へと陥りがちになります。これはどこにも導くことのない道です。ですから、結局私たちはスタート地点に戻ってしまいます。

私たちは自然であることは、その時々の成り行きまかせの思いに従うのではないということに気付くことによって、このパターンから抜け出すことができます。その代わりに、私たちの行動や決定を意識的に霊的ゴールに合わせると、それらは簡単で努力を要しないものとなるのです。

これは私たちを自由にする気付きの鍵です。それは罠の鍵をはずしてくれます。息子が素早く行動に移ったように、私たちは制限から飛び出し、言葉の障害を押しやり、自由を取り戻すのです。

私たちが本当に欲するものは、その瞬間毎に好きなことを何でもするという自由ではありません。そのように生きることは、私たちを超越できない霊的レベルに留めてしまいます。ですから、それは実際には監獄なのです。

私たちが本当に必要とするものは、タオの自然な自制です。私たちが自制に従い堅実に前に進むとき、やがては私たちの霊性を制限なく私たちが願うどんなレベルにでも持っていくことがでるのです。これが自由の真なる意味です。

自由になってこそ、私たちはタオの家へ帰ることができるのです。私たちの逸脱を振り返り、それを認識し微笑むことみができる今、修道を真に始める準備、そして人生の道としてのタオの教えを生きる準備ができたと言えるのです。