タオの生き方

  
     アンティーク花瓶 
 

デリック・リン

 

古代中国に長年の兵役ののちに退役した軍司令官がいました。彼は何もせずにブラブラすることを望まなかったため、骨董品収集を趣味とすることにしました。

ある日、彼は最近入手したアンティーク花瓶をめでるために書斎で腰掛けました。花瓶は高価でしたが、それに匹敵する素晴らしいものでした。彼は古代の工芸家が施したこの上なく優美な模様を吟味しました。

突然、不注意な指の動きにより花瓶が彼の手から滑り落ちました。司令官は花瓶を受け止めようとしましたが、表面がつるつるなため滑り落ちてしまいました。司令官は再度飛び込み、あと数インチという間一髪のところで花瓶をつかみました。

司令官の心臓の鼓動は激しくなり、息も荒くなりました。彼は花瓶をしっかりと抱き、ゆっくりと立ち上がりました。しばらくののち、彼は落ち着きを取り戻しました。

彼は花瓶の損傷を避けることができたためほっとしました。けれども、何かが違うのです。高揚感の代わりに当惑のみを感じたのです。「今まであらゆる戦争で、敵に突撃し、人々を戦場に送り込み、自分の隊よりも大きな軍隊とも戦ったが、今ほど恐れを感じたことはなかった。どうしてだろう。」

軍事経験を通じて、司令官は常に命を失う可能性を認識していましたが、それを恐れることはありませんでした。それが何故かこの日に限って、花瓶を失うという可能性が彼に恐れを感じさせたのです。

瞬時に彼は問題を見出しました。彼は花瓶に執着し過ぎたのです。執着が感情的動揺をもたらしたのです。彼は全く違った視点から花瓶をもう一度見ました。そして、心を完全に静めて手の力を抜きました。花瓶は落ちて粉々になりました。

道徳経の第44章に、次のふたつの文章があります。  

自分自身と富、どちらが大きいですか?

取得と喪失、どちらが痛いですか?

これらは問題の核心をつく単刀直入な質問です。どうしてか司令官にとって少なくともしばらくの間は、花瓶は彼の命よりも大きく、又は大切になっていたのです。何がそうさせたのでしょうか。

私たちは花瓶がそのようなために作られたのではないことを知っています。心を惹きつけるような魔力を持たない単なる物質だからです。問題は司令官自身から起こったのです。彼が花瓶に高レベルの重要性を付与したのです。まるで花瓶が彼を所有しているかのような逆の関係となってしまっていたのです。

歴史上、無数の人々が富を追い求めて死んでいます。そして私たちは強欲さのために自分自身を危険にさらす人々を見てきました。物質に高レベルの重要性を付与する人々がいます。彼らは自分がお金を得ているように思うかもしれませんが、実はそれは彼らがお金に得られているかのようなのです。

花瓶が司令官の問題の本当の根源ではなかったように、お金それ自体は責められるものではありません。お金は実際には私たちに対して何もできないのです。ですから問題は、無生物であるものが何故私たちにそれほどの力を及ぼすのかではなく、何故私たちはそれらにそのような力を与えようとするのかということです。

私たちは取得を良いもの、喪失を悪いものとして考えます。よって、喪失がより痛みをともなうものと結論付けがちです。けれども、タオの観点から花瓶を見てみると、異なった真実を垣間見ることができます。富に重要性を与えることにより、よりいっそうの痛みを得ることを導きます。これは私たちの期待とは全く逆のもののようです。

花瓶は私たちが執着するすべてのものとして考えることができます。執着すればするほど、失うことを恐れるのです。この恐れは失ってから始まるものではありません。執着の対象に何も起こっていなくても、私たちはすでに恐れているのです。

例えば、私には最近ラップトップのコンピューターを購入した友人がいます。それは小型で軽量のため大変高価でした。

「どうしてそんなに小さなものがいるの?」と彼に尋ねました。

「どこにでも運べるからさ。」と彼は誇らしげに答えました。

数ヵ月後、会議のため彼のところへ行ったところ、彼が大きな重いラップトップを使用していることに気づきました。「おや、君の新しいおもちゃはどうしたんだい?」と聞いてみました。

「あぁ、家に置いてきたんだ。」と彼は言いました。「壊したり、盗まれたり、忘れたりしたくないから、代わりに古いラップトップを持ってきたんだ。」

彼の言葉を熟考すると、彼はその皮肉に気づいているのかと思ってしまいます。私たち人間は、その時点では完全に論理的であると感じることをする要領を得ていますが、それは奇妙な結論への道へと導くだけです。

友人の感じた恐れは、一般的な恐れと基本的には違いがありません。この恐れの度合いは、執着の程度に比例し、私たちがその唯一の原因なのです。私たちの多くはこのようには考えません。私たちはそれを人生の一部であると受け入れます・・・けれども、何故そうしなくてはいけないのでしょう?何故自分自身で創り出した恐れとともに生きなくてはいけないのでしょう。

司令官の花瓶を手放す決心は、タオの修道者がこの問題を超越することを象徴しています。物質的所有物を壊して粉々にするべきであるという意味ではありません。それが本当に意味するのは、私たちの強欲な傾向を緩和し放棄する必要があるということです。

ある賢者がこれについて、のどを渇かせた男が山の小川で水を飲もうとしたことに例えました。男は口元へ水を運ぶために、小川に手を入れました。もし彼が握り締めたこぶしでそうするのならば、彼ののどは渇いたままです。もし彼が手を開いて両手ですくうのならば、冷たく新鮮な水を欲しいだけ飲むことができます。

人生も同じです。もし私たちが執着に満ちた人生を送るのならば、私たちは司令官が花瓶をしっかりとつかんでいる、又は、水へこぶしを突き出した男のようなのです。私たちは喪失の恐れを経験し、結局価値あるものは何も得られません。そして、責めるべき相手は他者ではなく自分自身なのです。

手放すことにより、私たちは自分自身でつくりだした人為的な恐れを解き放ちます。司令官のように、私たちは死の握りを緩めることによって心の平和を再発見できるのです。のどを渇かせた男のように、人生の小川に手を開いて入れ、明るく輝くタオのエッセンスをすくうことができるのです。 

このエッセンスを見てみると、その中に存在の精妙なパターンがあります。それらは人為的創造物の静的パターンではなく、ダイナミックな、神により創造された自然の変化し続ける力です。それは古風というよりも古代です。なぜなら無限だからです。それは他のどんな宝よりも価値があります。なぜなら値の付けようのないものだからです。

このエッセンスを飲むためには、人生にタオを吹き込むことです。口元にもたらすには、まず握り締めたこぶしを開かなくてはいけません。私たちは完全に悠々と恐れから開放された気持ちで水を飲みます。そして、何も握らずリラックスし、さらに水をすくいます。そして人生に更なるタオをもたらすのです。